和歌山における宣教の始め
1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えてから約50年後1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで甲斐21万5千石の甲府藩主だった浅野幸長(よしなが)は戦功を立てたことで徳川家康より紀伊37万7千石を賜り24歳で和歌山城三代では城主となった。(初代:豊臣秀長、第二代:桑山重晴)幸長は入城後、城の拡張大工事にかかり、石垣・天守閣・城門と目を見張るほどの壮大なものに変えた。幸長は1605(慶長10)年、家康に江戸城改築を命じられ、しばらく江戸に滞在した。その間に以前から患っていた皮膚病が悪化した。四方八方手を尽くしても治せなかった病が京都伏見のフランシスコ会教会付属の施療院でスペイン人宣教師アンドレス神父により、治癒した。(その頃の宣教師は医学・天文学・航海・測量・地理等に詳しい博学ぞろいだった)。それがきっかけで、1606(慶長11)年、幸長はフランシスコ会のルイス・カプレラ・イ・ソテロ神父(福者・殉教者、和歌山で2年余宣教)とアンドレス神父の二人を伏見より招き、和歌山城下に教会と施療院を建てることを願い出るほどで、その場所は和歌山城の西方(砂山の辺りから現在の和歌山気象台か海善寺付近か)と言われている。アンドレス神父に洗礼を薦められた幸長であったが、「神の教え以外はことごとく偽りである。自分は、心はキリシタンであることに満足している」と答えるのみだったという。宣教師の記録には「キリシタンの善き友」と記されており、受洗したとの説もある。また幸長は関ヶ原の戦い後、浪人となった多くの武士も召し抱えその中にキリシタン武士もおりキリシタンにとって暮らしやすい環境だったので城下には堺から移り住んだキリシタンたちも居住していたという。1608(慶長13)年、重病を患った幸長は弟の長晟(ながあきら)に跡目を譲り、教会の保護を依頼し1613(慶長18)年に逝去した。長晟も始めのうちは信者を保護したが、同年、江戸幕府がキリスト教禁止令[1]を発したため和歌山の教会は閉鎖された。
教会は閉鎖されたが当初はさほど弾圧も厳しくなかったようで、宣教師は度々和歌山を訪問していた。浅野長晟の家臣遠山家(甲斐の国から追従)の自宅に宣教師を宿泊させ危険の続く間は奥の間を宣教師たちの隠れ家とし聖堂に代用していた。フランシスコ遠山甚太郎信政(※)は元服したばかりの16歳、1616(元和2)年に洗礼を受けた。甚太郎は「帯の組」すなわち現代の在世フランシスコ会に受け入れられて在俗メンバーとして帯を授けられ、司祭のミサを手伝い、カテキスモ(公教要理)やポルトガル語も習得し、数人を洗礼に導く手伝いもした。浅野長晟が大阪冬の陣・夏の陣に戦功あり、1619(元和5)年、安芸(広島)へ国替えを命じられ、甚太郎も長晟に従った。広島へ移って5年後の1624(寛永元)年に甚太郎は広島で殉教した。
[1] キリシタン禁令・禁制で禁教令と呼ばれ、1612(慶長17)年及び1613(慶長18)年に発令された。
※2008年に列福されたペトロ・カスイ岐部と187殉教者中・広島の殉教者の一人。
1619(元和5)年 浅野長晟の後を継いだのが徳川家康の第十子徳川頼宣(よりのぶ)で、紀伊大納言と称した。頼宣は藩政に著しく力を注いだので和歌山の町は見違えるばかりに発展した。そんな中でキシタン迫害の火の手はますます厳しくなるばかりであった。浅野幸長が築き上げた教会の諸施設はことごとく破壊され、禁制札は至るところに立ち巡らされ、司祭、修道士、信者の首には高額の賞金がかけられた。また仏僧に命じてすべての民家の宗門調べを行い、年に二回、必ず檀家を巡って仏壇を調べ、キリシタンの生活を極度の困難に陥れた。紀州藩では、島原の乱以後の1638(寛永15)年からキリシタンの取り調べがきつくなり吹上村で80余名が仕置された記述がある。
寛永年間以降も禁制を幕府も諸藩も出しており、和歌山のキリシタンのその後についての具体的なことはあきらかではないという。
「キリシタン灯篭」と呼ばれる織部式灯篭が屋形町教会庭・五番丁・温山荘庭園・禅林寺などに点在しているが、当時のキリシタンの信仰を窺い知るものであるかは不明である。
参考資料:『和歌山カトリック教会再興百年記念誌』吉中一郎氏記
『宣教事始-大阪教区小史』西村良次師 より引用・抜粋
『和歌山の研究 3 近世・近代篇』安藤精一(和歌山大学経済学部名誉教授)
和歌山に流された浦上キリシタン
初めに
1865(元治 2)年、⻑崎の信徒発見(大浦天主堂でプチジャン神父にキリシタンの子孫が名乗りでた出来事)に端を発し、政府はキリシタンへの弾圧を加え1868(慶応 4)年、指導的立場にある信徒 114 名を検挙して萩・津和野・福山に流配し、ついで 1870 年 1 月(明治 2 年 12 月)、浦上村のキリシタン三千人余(3,394 人)を全国二十藩に流配した。これが「浦上四番崩れ」である。
1870 年 1 月(明治 2 年 12 月)〜和歌山には 281 名・65 家族の信徒が流配された。第一次は戶主組 75 名、第二次は家族組 190 名・第三次は寺仲間(仏教徒と主張して流配を免れようとした者)16 名計 281 名※である。(※明治 4 年 6 月作成和歌山藩「異宗門徒人員帳」に⻑崎藩から受け取った時点で 281 名とある『キリシタン研究』第十四輯所収より)戶主組の男子の情報はないが、家族組は湊片原町(現地名:湊紺屋町〜小人町付近)の⻑覚寺(現在は駐車場になっている)に収容されたとの記録がある。預かり信徒を個々バラバラに収容する政府の既成方針や改心を促す藩の方針もあり、到着後まもなく藩内の口熊野六郡(伊都、那賀、名草、海士(あま)、有田、日高)と東牟婁・⻄牟婁の八郡や奥熊野などへと均等に分けて預けられ家族は分離された。奥熊野へは 32 名が一週間も和船に乗せられ木本(きのもと・現在:熊野市)に着き二ヶ月間、極楽寺(三重県熊野市木本町 568)に留まった後それぞれの村に預けられた。
食料の給付(男は一人一日米 5 合・女は一人一日米 3 合)は百日(3ヶ月)で、その間に日雇い稼ぎをさせ給付が打ち切られた後は自活の強制が藩の基本方針だった。慣れない土地での生活は母子には無理があり困難をきたしたであろう。信徒への待遇は置かれた所で様々だったが岩永キクの場合は熊野 4 村をたらい回しされ都度、改心を迫られた。中には 150 日間に 60 軒もたらい回しされた者もいた。音五郎の場合は百日の米をできるだけ食い延ばすよう庄屋に言われ残した米を出立の際 買い取ってくれて、庄屋はどれだけ頑張って節約し手に入れた金銭であるか理解してくれるよう役人に嘆願してくれた。
再び和歌山へ 1870(明治 3)年 6 月下旬、各地に分散されていた信徒たちは岩橋(いわせ)方面の寺に集められた。15 歳以上の男女で労働に耐えられる者は「鼻下」という所(ハナシタの場所は現在特定できない)に寝泊まりして日方開拓地での塩浜工事に使役させられた。囚人と同じように渋染の服を着せられ眉を剃り落とされ見分けがつくよう十字架のついた笠を被せられた。男性は未明から日没まで雨の日も雪の日も毎日、塩水に漬かって働かされ服は塩に濡れ手足は泥に塗れ、苦役が終わるとそのままで杉の丸太の頑丈な格子をめぐらした牢獄に追い込まれ錠前をかけられた。女性はその牢獄付近の露店に出て縄をなわされ、わらじやモッコを作らされた。
苦役に耐えられない老人・幼児や病弱な者は太田八丁の馬小屋に収容された。湿っぽい土間に丸太を並べた上に板を敷きムシロ 1 枚敷いてあるだけで、窓も高く陽も入らなかった。蚊帳も灯火もなく着のみ着のままで寝起きし、食事も小さな茶碗一膳の粥と梅干ひとつで、腐った粥も啜らされた。大雨が降れば床が浸かり近くの寺へ避難したこともあった。このような劣悪な住環境・食事情のため改心者も増え、飢渇・下痢症などで明治 3 年 6 月から 8 か月間で 87 名の死者が出た。どこに葬られたのか定かではないが近くの玄通寺(銀杏寺:和歌山市太田 531)や崇賢寺(和歌山市北新金屋町 7 丁目)とも言われているがそこに墓標があるわけでもない。
1871(明治 4)年 1 月 16 日もって日方の塩浜工事も太田八丁の馬小屋での苦役も終わった。近々中央政府から視察に来るというので、婦女子は伝甫(でんぽ)の⻑屋(現在の南海和歌山市駅当たり)へ移され、男性は岡田藤右衛門屋敷跡(現在の徳田木丁)後に延命院(赤門寺:和歌山市鷹匠町)に収容された。女子には一日米 4 合、男子は 6〜7 合と副食代として 2 銭 5 厘が渡され自炊させた。外務大丞の楠本正隆が巡視する時には二度も三度も入浴させたり、にわかに髪を結わせたりして優遇しているよう示した。楠本正隆の『巡視概略』には馬小屋は「救育所」とある。伝甫の⻑屋で2 年 3 ヶ月余りの和歌山での最も⻑い流配生活を送った5)年、改心した信徒 143 名が、不改心の岩永キク、野口モト、岩永サツ他 52 人を残して浦上へ帰ったが 1 人は帰還途中で死去した。1873(明治 6 年)2 月 24 日、キリシタン禁制の高札が撤去され残された不改心の信徒 52 名が4 年余の流配を終えて浦上へ帰還した。
和歌山藩流配記録の基本数値には各種の名簿、届けなどが保管されており、不明な点は少ない。
流配人数 281 人 死亡者 95 人 出生児 12 人 改宗者 143 人 生還者 52 人 脱走者 3 人
—『和歌山・名古屋に流された浦上キリシタン』三俣俊二著 引用・抜粋 —
浦上四番崩れで和歌山に流配されて亡くなられた浦上信徒の墓碑が禅林寺(和歌山市鷹匠町 5−3−1)にある。1927(昭和 2)年当時、屋形町教会主任司祭だったグリナン神父が、奈良教会主任司祭だったビリオン神父(84 歳)※と計画して記念碑を建立された。墓碑には「信 仰 光 +ロレンソ中村茂三郎 +カタリナ片岡ふく+マグダレナ岩永つね他 四十人及碑 幕末迫害之時為而在紀州藩 明治四年死干獄中 昭和二年 四月建立」と刻まれている。ビリオン神父は、浦上四番崩れで流配されていく信徒たちを⻑崎で祈りのうちに見届け、その信徒たちの名前を殆ど記憶されていた。
なぜ禅林寺に墓碑(記念碑)が建立されたのか?
『屋形町教会今昔』の冊子を記された吉中一郎氏(1910〜1999)によると「明治 4 年春、太田八丁の馬小屋から、日方の塩田から伝甫(でんぽ)の⻑屋(伝法収容所)へ収容された信徒が風邪に罹り40名が亡くなり禅林寺に埋葬されたのを保呂米蔵氏(屋形町教会信徒)が少年の頃に目撃しており、後に立証され禅林寺の了解のもと墓所として選ばれた」とある。
※ビリオン神父は、1872(明治 5)年神戶で居留外国人および浦上キリシタンの司牧に当たられ、1873(明治 6)年 4 月 21 日〜5 月 13 日まで神戶経由で帰郷する浦上キリシタンの世話をされた。
深堀きくの墓:和歌山市鳴神、花山温泉の駐車場より高速道路下のトンネルを抜けてから階段を上がった所の左側にある深堀きくの墓石四面の正面は「+深堀きく 明治四年七月十七日」左面には「⻑崎縣元原郷浦上村 深堀善次郎」右面には「明治十六年未三月」台石には「為母建之」と彫られている。流配され見知らぬ地で苦難の生涯を終えて故郷に帰ることができなかった母のために、息子が建てた墓は⻄方(⻑崎方面)に向かって建てられている。 改心者でなければ母親の埋葬に立ち合う自由も与えられなかったと思われるが、息子の善次郎氏は浦上へ帰って 11 年目に母親の埋葬地を訪れ建立したが、なぜ日前宮宮司紀家の墓所に墓を建立させてもらえたのかは不明である。流配された人の墓石の現存はわずかで貴重な墓である。(この墓は 1966 年に井上正一氏(関⻄大学歴史研究室)により花山古墳群調査の折に偶然、発見された)
註 :これらの記録は諸説ある中での 2018 年現在の資料だが、新たな史実の発見がある場合は書き換える。